どうも~。当ブログを読んでいただいている、そこのあなた!いつも見ていただきありがとうございます。担当のSWーchallengeで~す。
今回は母の闘病生活の最後(私の大卒から亡くなるまで)についてご紹介します。👏
それでは、いってみましょう。(^o^)/
目次
今までのおさらい!😲
一年前に途中まで書いてそのあと書いていなかったので知らない方もいらっしゃるかと思うので、簡単に説明しますね!
私の母は私を妊娠中にこの膠原病という病気を診断されました。
胃とか腸や肺など様々な生きるための大事な臓器に悪さをするような病気です。治療方法はステロイド剤を使用しますが、母の膠原病ではあまりステロイド剤が聞かない膠原病でした。
私が高校入学するまではあまり目立った発症は少なかったのです。
この病気は朝早起きすることが一番の敵と言われています。なので私が高校に行くようになり、早起きして弁当を作るようになってからかなり症状がひどくなることが多く、入退院を繰り返していました。
一番今まで大きな治療したのは、私が大学2回生のときでした。
このころは、膠原病にかなりおかされていたので、腸がかなり弱くなっていて、あまり食べられないことから栄養点滴をしていて、その点滴の針とかつなぐところからとかどこから入ったのかはわかないけど、菌が心臓の弁に入ったりその菌が頭に行って脳梗塞をおこしました。
幸い、心臓の手術や脳梗塞の治療は成功しました。
そのあとも大学卒業まで入退院をしながらなんとか生きていました。
もっと詳しく知りたい方はこちらのブログをお読みくださいね。
大学卒業後🏢
私の大学を卒業前にまた家に帰ることができ、卒業式には来る体力がなかったけど、家族みんなで温かく卒業したことを迎えることができました。
私の前職の新卒研修が卒業してすぐにあり、慣れない研修とかで疲れることが多く、私が疲れてた!とかしんどい!とよく言っていていたので、母が心配そうにしていたので余計にしんどい思いをさせちゃったかなと今思いますね。
母の症状は安定していました。
この時の介護はお風呂から母が出てきたら、バスタオルで体をふく、パンツやズボンを少し上げてあげることやドライヤーをした後の髪の毛を取るなどをしていました。
たまにトイレにちゃんと行けているかもチェックしたり、私が休みの日はお茶とか入れて持って行ったりしました。
6月の最後☔
仕事にはまだ慣れていなけど、なんとなくイメージがついてきたかなと思っていた矢先、母が3日間ぐらい熱が続いていて、訪問看護師やいつも見ていただいてる病院に連絡したころすぐに来てくださいと言われ病院に行ったところ即入院になりました。
その時は大部屋に入院し、またよくなるよなと楽観的に私も母も父もみんな思っていました。
なんか今回はおかしい!!😷
すぐによくなると考えていましたが、7月に入ると、だんだん一口もご飯を食べなくなったり、いつもなら面会に行くと会話をするけど寝ている時間が多くなって、なんか変だな思っていました。
また、母は免疫がもうなくなって普通の人がかからない日見感染とかいろいろ体の中にいることや酸素の管理が必要ってことで個室に移りました。
7月の2週目からおかしなことを言いだしました。夕方仕事帰り行って会話していたら、朝ドラ見たいからテレビかけてと時間もわからないぐらいになりました。
また亡くなる1週間前に私も体調が悪くて仕事を休んで、母のいる病院で診察したときに、あとで母の病室で先生の説明があるから上がってね!と言われました。
そのころには会話も極わずかで目も半分上の空を見ている感じでした。
余命宣告を受けて!😿
そこで余命宣告されました。あと1週間持つか持たないかです。と
さすがに気分が落ち込みました。
もしかしたらもっと長生きするかもと少し思いましたが。
そこで私は職場でも家でも介護するのが嫌になっていることやうまく職場で介護できなく事や母の余命宣告などで今まで我慢していたものが爆発して仕事に対する意欲が低下しました。このままでは自分だけではなく、職場の入居者さんとか職員さんにも迷惑が掛かると思い、退職しよう!と考えました。
こういう状況やから落ち着いてから職場に来てね!と言っていただけたので、亡くなってから退職の手続きを行いました。
亡くなるまでそこから1日中病院で面会に行っていました。
少しでも母の近くで居たい!と言う気持ちになったからです。
亡くなる2日目😾
亡くなる2日目ぐらいになると、つばの呑み込みで窒息することもあるらしく、痰を看護師さんが取ってくださりました。もちろん食事なんてありませんでした。
母はよく喉が渇いてうがいしたい!と日ごろから言っていたのである程度の時間が来たら、それも看護師さんが来て誤嚥しないようにやってくれました。
そして目もほとんど瞬きとか自分で動かすことができなくなっていました。なので目が乾燥しないようにガーゼを置いていました。
そしてお医者さんにももう明日か明後日が山場になるかもと言われました。
亡くなる前日!😫
母はほとんど意識がありませんでした。
それでも何か聞こえているかもしれないと思っていたので話しかけていました。
また比較的近い従姉妹のおばちゃん夫婦も来てくれました。
また帰るころには息も肩で息をする死期に近い下顎呼吸になっていました。
亡くなる当日😱
この日は朝から大阪の北に住んでいる従姉妹のおばちゃんが午後には母の母と母の父(祖母&祖父)と産婦人科に連れて居てもらったおばちゃんが来る予定でした。
従姉妹のおばちゃんは少し母の耳元で母の名前を呼び、頑張りや!と少し話を言って帰りました。
午後に来た祖父は前々日まで入院していて、母が入院して危ないということを知らしていなかったので母の顔を見てびくっりしていました。
祖母やおばちゃんも母の名前を呼び、頑張りや!と声をかけて帰りました。
1時間後、急に下顎呼吸がなくなり、モニター(心電図)も不規則なりました。
そこから数分後酸素が下がり、40を切りました。
40を下回ると、一気に呼吸数が0に近くなり、脈も低くなりました。
そして0になり、医師や看護師がやってきて、死亡が確認されました。
みんなが来て安心て母は逝ったのかなと思いました。
母が亡なって看護師さんとケアをしていた時に聞いたのですが、亡くなる前日の夜に私の名前を呼んでありがとう!と叫んでいたそうです。
今まで母の介護をしてよかったなと思った瞬間でした。
葬式ではお母さんありがとう!!!と言う気持ちでいっぱいでした。
まとめ!☺
今回は
私の大学卒業後!
6月からの入院!
余命宣告!
亡くなる前日&当日!
についてご紹介しました。
祖父たちが帰って1時間ぐらいで亡くなったので母は祖父を待っていたのかなと今思えば感じています。
また亡くなる前日の夜に私の名前を呼んでありがとう!と叫んでいたことを看護師さんから聞いたときは、母の介護をしてよかったと思う気持ちと母は私にこれからは自分の分も生きてほしいと思ったんかなと不思議な感じになりました。